アファナシエフからの寄稿文『マズルカ』

2016年9月28日 -

アファナシエフから2016年10月22日紀尾井ホールで演奏曲目ショパンのマズルカに関する、エッセイがとどきました。

マズルカ 

ある友人は、あらゆる楽曲は程度の差こそあれ、ワルツをもとに作られていると主張している。ある意味でその主張は正しいと言える。なぜならワルツは、ハーモニー(調和)の実体をあるがままの形で顕在化させているように感じさせるからだ。円環運動は(たとえそれがスムーズでなくても)他のどの動きよりも調和している。そして、例えばマズルカとの違いとしてワルツの明確で澱みのないリズムは、私たちがハーモニーに対していだいている観念や感覚とも一致する。
ワルツの形式やその澱みない流れの形跡を、あらゆる楽曲にみとめられるのかどうかは私には分からない。しかし、表現形式としての舞踊は、我々の生活と音楽のあらゆるところに遍在していることは疑いようがない。多様な神々や英雄たちの踊りは、それぞれのリズム構成によって、世界に生滅の往還をもたらす。そして、儀式的舞踏は天国と地上の間を繋ぐ重要な鎖の環の役割をもち、雨や愛、勝利、肥沃をもたらすことで達成される。いずれ、舞踏はすべての物や人を消滅させ、神聖な和合へと導くのだろうか。
また、舞踊は人間の魂の顕在化でもある。(ダヴィデ王の聖櫃の前での踊り)もっと低い次元においては、人の心理の現れだ。ジョイスの『意識の流れ』と呼ばれる叙述法を、私は小説 The Philosopher’s Way のなかでこう中傷した。「私たちの思考は三次元的、四次元的である(匂いもまた私たちの『合成成分』である。)から、私たちの精神を多少なりとも忠実に描写するには、本のページは立法体や未知の超幾何学的な形状でなければならない。」ショパンのマズルカはこのような四次元文学作品より、その目的(魂の顕在化)にかなっていると感じることがある。私たちの思考は自身の希望、憂慮、気分によって色づけされ、毒されるので、これらなくして、思考、それ自体のみでは存在しえない。ショパンのマズルカ、すなわち‘色づけされた思考’は踊りながら、あらゆる困難な問題を回避するどころか、無意識の最奥の秘密にたどり着きメスを入れる。実際に人はマズルカの作品、それぞれに様々な色質を感じ取ることが出来るかもしれない―色や匂い、そしてまた別の主観的な‘第二性質’をも。一方でマズルカは固体性、拡張性のような‘第一性質’を失っているように思える。ショパン作品の多くがそうであるように、マズルカにもまたノスタルジーが横溢している。このノスタルジアはどこからもたらされるのか。それは、もちろん過去から。そして、未来と天国、天国と地上とを繋ぐものからもまた。ごく深く個人的な秤にかけてみれば、ショパンのマズルカは愛や死者、そして、死そのものを呼び起こす儀式的舞踏ともいえる。しかし、それはヒンズー教、仏教、イスラム教、アフリカの部族などの儀式的舞踏とは異なり、なにも成しえはしない。

ショパンのマズルカは
死をもたらさない、
悲哀も
狂気も
死者も
甘美も
そのほかなにも。
つれてもこない
生へも
また、愛へも。

どこへもつれていかない。

プラトンは舞踊が神に由来すると考えた。だが、ショパンのマズルカは人に由来し、天国と地上のあいだを結びつける。それは、ごく親密で個人的な絆である。

ヴァレリー・アファナシエフ